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難波一族記 ~はじめに~

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はじめに かつて備前の国に平家の侍大将を務めた男がいた。 彼は平家で活躍をみせるが、平家滅亡に伴い一族は備中の山奥に潜み過ごす事となる。 潜伏しながらも子孫は居住地を支配する守護の命により足利将軍の為に働き、室町時代末期には弓の使い手もあらわる。 その後も一族は備前、備中の勢力に仕えながら地元に構えた神社の神職を務め安息の日々を過ごしていた。 江戸時代前期には嘗て先祖が共に足利将軍家の為に働いたという縁で一人の僧がやってくる。この僧は度々この地を訪れて、やがて辻説法を行う様になる。一族はこの教えに感じ入り、やがてこの教えの信者となっていく。 その約50年後、事態は悪転する。 当時の岡山藩池田家の進めた神社合祀によって今まで地元に構え守ってきた神社を村の神社に合祀する事となり、一族は神職を辞す事となる。 また時を同じくして信者となっていた先述の教えが徳川幕府により禁教に指定されてしまったのである。 これより幕府による取締りや弾圧が始まる事となり、一族は表向きは他教に改宗した事にして、内信を続ける事となる。 ある時、内信を疑い取り締まりに来たある武士、これを打ち負かす活躍をした先祖。この男は後に名前を変えて代々英雄・神様として祀られた。 時代は下り天保年間には最も過酷だったといわれる天保法難と呼ばれた弾圧が始まり、大阪奉行所より、摘発され一族は大混乱となる。村の庄屋や村民からの助けもあり、これを切り抜け時代は明治となり禁教を解かれる事となる。 天保法難時に摘発に来た役人13人の経費を村に肩代わりしてもらっており、この時に一族は村に多大な迷惑をかけたと村に恩義を感じ、子孫たちは村の為に小前惣代、村会議員、郡会議員、村助役、村書記など村の要職を務め尽瘁する事となる。 我が一族は先祖たちのこの様な出来事を経て現在に至る様です。 これよりその時々に起こったと思われる一族の物語を紹介していこうと思います。