投稿

難波一族記【1】~経遠編~ 第二十章 平治の乱・六波羅の陣

イメージ
  20.平治の乱・六波羅の陣 その夜から。 六波羅の姿は変わった。 次々と武者が集まってくる。 平家一門。 郎党。 各地から戻った武士たち。 平時の屋敷は、瞬く間に巨大な軍営へと変わっていった。 経遠は自らの手勢を集めた。 「東の道に二十。北の門に三十。残りは屋敷周辺へ」 郎党たちが次々と動く。 「敵が来ても勝手に追うな。わしの命を待て」 「はっ!」 経遠の前には、戦場を描いた簡素な地図が広げられていた。 道。 橋。 門。 源氏勢の位置。 どこへ兵を置き、どこを空けるか。 経遠は一つずつ確かめていく。 少し離れた場所では、兼康も自らの軍勢を整えていた。 「盾持ちは前じゃ! 槍はその後ろ! 馬を狭い道へ入れるな!」 声が大きい。 経遠が振り返る。 「太郎殿」 「何じゃ、次郎殿!」 「夜中じゃ。もう少し声を落とせ」 「兵は声が大きい方が元気が出る!」 「敵にも聞こえるわ」 周囲の郎党たちから笑いが漏れた。 兼康も笑う。 「相変わらず細かい男じゃ!」 「太郎殿が大雑把すぎるのじゃ」 二人は同じ侍大将であった。 だが、軍の動かし方はまるで違う。 経遠は戦場全体を見て兵を配置する。 兼康は大きな声と豪胆さで兵をまとめる。 互いに違う。 だからこそ、互いの力を認めていた。 そこへ経房が歩いてきた。 その後ろには、自らの郎党たちがいる。 「兄者」 「何じゃ」 「俺たちはどこへ行けばよい」 経遠は地図から目を上げた。 「まだどこへも行くな」 「またか!」 「三郎」 経遠は弟を睨んだ。 「お前の役目は、兵を並べることではない」 経房が黙る。 「敵の陣が崩れた時――」 経遠は地図の一点を指した。 「そこを破るのがお前じゃ」 経房の口元が上がった。 「なるほど」 兼康が笑った。 「三郎には、それが一番似合う!」 「太郎殿に言われたくはないわ!」 「何じゃと!」 二人が言い合いを始める。 経遠はため息をついた。 だが、その顔にはわずかな笑みがあった。 やがて、清盛が現れた。 三人はすぐに姿勢を正す。 その隣には重盛もいる。 清盛は集まった武者たちを見渡した。 「よいか」 六波羅が静まり返る。 「今はまだ動くな」 誰も声を発しない。 「戦とは、太刀を抜いた時から始まるものではない」 清盛はゆっくりと言った。 「いつ抜くか。それを決めるところから戦は始まっておる」 経遠はその言葉を胸...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十九章 平治の乱・清盛帰還

イメージ
  19.平治の乱・清盛帰還 数日後。 六波羅の門前が騒がしくなった。 「清盛様がお戻りじゃ!」 その声が響く。 経遠は屋敷を飛び出した。 経房も続く。 街道の向こうから、武者の一団が近づいてくる。 その中央にいたのは、平清盛である。 旅装のままだった。 熊野参詣から急ぎ戻ったため、その顔には疲れが見えた。 しかし、目には力があった。 その傍らには、嫡男・平重盛の姿もあった。 重盛――清盛の長男であり、次代の平家を担う若き武将である。 さらに、その後方から大きな声が響いた。 「次郎殿!」 経遠が見る。 「太郎殿!」 瀬尾太郎兼康だった。 兼康もまた、自らの手勢を率いて京へ戻ってきたのである。 馬から降りるなり、兼康は経遠の肩を叩いた。 「次郎殿! わしのおらぬ間に、ずいぶん面白いことになったではないか!」 「面白がるな、太郎殿」 「はっはっは! 相変わらず堅いのう!」 経房が横から口を挟む。 「太郎殿、遅かったではないか」 「三郎。お主、わしのいない間に勝手に戦っておらぬであろうな」 「兄者が止めるから戦えなんだわ!」 「それでよい」 経遠と兼康の声が重なった。 経房が顔をしかめる。 「二人して何じゃ!」 そのやり取りを見ていた清盛が、わずかに笑った。 「変わらぬな、そなたらは」 三人はすぐに姿勢を正した。 「清盛様」 清盛は経遠を見た。 「次郎」 「はっ」 「都の様子を申せ」 経遠は即座に答えた。 三条殿への襲撃。 後白河上皇の拘束。 信西の死。 源氏勢の配置。 六波羅周辺の道。 これまで郎党を使って集めた情報を、経遠は一つずつ報告した。 清盛は黙って聞いていた。 やがて口を開く。 「よく調べた」 「恐れ入ります」 兼康が腕を組む。 「清盛様。ならば、すぐにでも討って出ますか」 経房の目も輝いた。 「俺もそう思います!」 「三郎」 経遠が睨む。 清盛は首を振った。 「まだじゃ」 経房が目を丸くした。 「まだ……でございますか」 「今、兵を出せばどうなる」 誰も答えない。 清盛は続けた。 「信頼は上皇を押さえ、朝廷を動かしておる。わしらが先に刃を向ければ、平家が逆賊とされるやもしれぬ」 経遠は静かに頷いた。 兼康が唸る。 「なるほど」 経房だけが納得していない顔をしている。 清盛はそんな経房を見て笑った。 「三郎」 「はっ」 「太刀は研いでおけ」 経房の顔が...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十八章 平治の乱・信西の最期

イメージ
  18.平治の乱・信西の最期 翌日。 京には重い空気が漂っていた。 三条殿の炎は消えた。 しかし、戦は終わっていない。 むしろ始まったばかりだった。 「見つかったそうじゃ」 経房が低い声で言った。 経遠は顔を上げた。 「誰が」 「信西殿じゃ」 経房の表情を見れば、続く言葉を聞かずとも分かった。 信西入道は都を脱出した。 だが追手から逃れ切ることはできなかった。 やがて、その死が京へ伝えられた。 保元の乱後。 信西は後白河上皇のもとで政務を担い、多くの改革を進めた。 その一方で急速に力を持ったことで、朝廷の内外に多くの反発を生んでいた。 そして今。 藤原信頼らが挙兵すると、その最初の標的となったのである。 「刀を持って戦ったわけでもないのにな」 経房が呟く。 経遠は答えなかった。 「保元の乱では、敵が目の前におった」 経房は続けた。 「為朝がおり、上皇方の武者がおった。だから敵へ向かって太刀を振ればよかった」 拳を握る。 「だが今度は、誰と戦えばよい」 経遠は窓の外を見た。 京の町を、源氏の武者たちが行き交っている。 「だから動くなと言った」 「兄者」 「今は、太刀を抜く時ではない」 経房は苛立ったように立ち上がった。 「いつまで待つ!」 「清盛様がお戻りになるまでじゃ」 その名が出ると、経房は黙った。 平家の棟梁・清盛は、今も京の外にいる。 熊野参詣から戻る途中で、都の異変を知ったはずだった。 「清盛様は戻れるのか」 経房が尋ねた。 経遠はしばらく答えなかった。 「戻られる」 「なぜ分かる」 「戻られねば、平家は終わる」 そのときだった。 外から馬の音が聞こえた。 「経遠様!」 郎党が飛び込んでくる。 「清盛様から使者にございます!」 経遠が立ち上がった。 「通せ!」 使者は泥まみれだった。 長い道を急いできたことが分かる。 「清盛様より申し上げます」 使者は頭を下げた。 「六波羅を守れ。軽々しく兵を動かすな。必ず戻る――とのことにございます」 経房が兄を見る。 経遠の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。 「聞いたな、三郎」 「ああ」 経房も笑った。 「ようやく面白くなってきた」 「まだ戦うとは言っておらぬ」 「兄者は細かいのう」 経遠は使者へ向き直った。 「清盛様にお伝えせよ」 そして静かに言った。 「六波羅は、難波次郎経遠が守っておりますとな」 使者は深く...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十七章 平治の乱・三条殿炎上

イメージ
  17.平治の乱・三条殿炎上 夜空が赤く染まっていた。 「兄者!」 経房が屋敷を飛び出す。 遠くから炎が見えた。 三条殿である。 そこは後白河上皇が御所として用い、院政の政務を行っていた重要な場所だった。 その御所を、藤原信頼と源義朝の軍勢が襲ったのである。 藤原信頼と源義朝の軍勢は、後白河上皇の御所を襲撃した。 御所を取り囲み、上皇を拘束したうえで、建物に火を放ったのである。 京の町に悲鳴が広がった。 「三条殿が……」 経房が呟く。 炎は夜空を焦がし、黒煙が都を覆っていた。 「郎党を出す!」 経房が振り返った。 だが経遠が、その腕を掴んだ。 「待て」 「また待てというのか!」 「今、三条殿へ向かって何をする」 「逃げる者を助ける!」 「そのために源氏の軍勢と戦えばどうなる」 経房が言葉を失った。 信頼らは後白河上皇を押さえている。 いま彼らに刃を向ければ、それが何を意味するのか。 経遠は見誤るわけにはいかなかった。 「三郎、お前の郎党を使え。戦うのではない。炎から逃れてくる者を六波羅へ導け」 経房が兄を見る。 「それならよいのか」 「ああ」 経房の顔に力が戻った。 「任せろ!」 数人の郎党を率い、経房が闇へ消えていく。 経遠は残った者たちに命じた。 「門を閉じるな。女子供、武具を持たぬ者ならば入れよ。ただし武者が紛れ込まぬよう、よく確かめるのだ」 「はっ!」 六波羅が慌ただしく動き始めた。 しばらくして経房が戻ってきた。 その後ろには、老人や女、幼い子供たちがいた。 「こちらじゃ! 急げ!」 経房自身も、一人の童を抱えていた。 経遠はその姿を見つめた。 保元の乱以前の経房ならば。 燃える御所を見れば、敵のいる方へ真っ先に走っていただろう。 だが今は違った。 「三郎」 「何じゃ、兄者!」 「その子を奥へ」 「分かっておる!」 そう言って走り去る弟を見送り、経遠は再び炎を見る。 そのとき、一人の郎党が駆け込んできた。 「経遠様!」 「申せ」 「後白河上皇は、信頼方の手に落ちたとのこと!」 さらに別の者が続いた。 「信西殿の屋敷にも兵が向かっております!」 経遠の表情が険しくなった。 「信西殿は」 「すでに都を離れたとの噂もございます」 経遠は黙った。 炎の向こうで、何かが崩れていく音がした。 これは保元の乱とは違う。 軍勢が二つに分かれ、正面から戦ったのでは...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十六章 平治の乱・京の異変

イメージ
16.平治の乱・京の異変 保元の乱から三年。 平治元年(一一五九年)。 戦に勝った朝廷も、決して一枚岩ではなかった。 後白河上皇の周囲では、新たな権力争いが生まれていた。 その中心にいた一人が、信西入道である。 信西――俗名を藤原通憲という。後白河上皇の近臣として政務を担い、保元の乱後の朝廷で大きな力を持つようになった人物であった。 そして、その信西と対立を深めていたのが藤原信頼である。 藤原信頼――同じく後白河上皇の近臣であり、源氏の棟梁・源義朝とも結びつきを強めていた公卿であった。 保元の乱で同じ側に立った者たちが、今度は互いに敵となろうとしていた。 十二月。 平清盛は熊野参詣のため、京を離れていた。 この時、瀬尾太郎兼康も京を離れていた。六波羅に残っていた経遠と経房は、清盛らの帰還を待ちながら、都の異変に備えていた。 六波羅。 平家の京における本拠である。 経遠は屋敷の一室で、郎党から各所の報告を受けていた。 「三条殿の周囲で、不審な武者が増えております」 「数は」 「分かりませぬ。ただ、源氏の武者を見たという者も」 経遠の眉が動いた。 三条殿。 後白河上皇の御所である。 「兄者!」 戸が勢いよく開いた。 経房だった。 「何事じゃ、三郎」 「都がおかしい。源氏の武者が動いておるというぞ」 「聞いておる」 「ならば、兵を出そう!」 経遠は首を振った。 「まだ動くな」 「何?」 経房が眉をひそめる。 「敵が誰なのかも、何を狙っておるのかも分からぬ」 「だが、何か起きてからでは遅い!」 「だからこそじゃ」 経遠は立ち上がった。 「わし一人ならば、太刀を取って様子を見に行けばよい。だが今のわしには、郎党がおる」 経房が黙る。 「一度動かせば、皆の命を預かることになる」 保元の乱の頃とは違う。 経遠はすでに、自分一人の武勇だけで戦う男ではなかった。 「各所へ人を出せ」 経遠が郎党へ命じた。 「三条殿、内裏、六波羅へ通じる道。それぞれの動きを調べよ。ただし戦うな」 「はっ!」 郎党たちが駆け出していく。 経房は腕を組んだ。 「俺は?」 「お前は自分の郎党を集めておけ」 経房の目が光った。 「戦うのか」 「まだじゃ」 「何じゃ」 「備えるのじゃ」 経房は不満そうに口を曲げた。 「兄者は、ずいぶん慎重になったな」 「お前が昔から変わらず無鉄砲だからのう」 「何を!」 そのとき...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十五章 河原の兄弟

イメージ
  15.河原の兄弟 数日後。 賀茂川の河原に、二人の男が並んで座っていた。 経遠と経房である。 保元の乱が終わってからしばらく経ったが、都の空気はまだ重かった。 戦場となった場所には焼け跡が残り、敗者への処断も続いている。 川の流れだけが、何事もなかったかのように静かに京を流れていた。 「兄者」 経房が小石を拾い、川へ投げた。 水面を二度、三度と跳ねて沈んでいく。 「戦というものは、勝てばもっと気分のよいものだと思っておった」 経遠は何も答えなかった。 経房はもう一つ、小石を投げた。 「鎮西八郎(為朝)と戦っておった時は、何も考えなんだ。ただ敵を倒すことだけで頭がいっぱいでな」 「お前らしい」 経遠が小さく笑った。 そのときだった。 一人の郎党が河原へ駆けてきた。 「殿! 備前より文が届いております!」 経遠が振り返る。 「父上からか」 「はい」 経遠は文を受け取った。 封を開く。 そこには、父・経信の言葉を長兄・経友が書き記していた。 ――戦に勝ったことは喜ばしい。 経房が兄の肩越しに文を覗き込む。 「何と?」 「待て。今読んでおる」 経遠は続けた。 ――されど、勝ったからとて驕るな。 「いかにも父上らしい」 経房が呟くと経遠の口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。 しかし、その次の一文を読んだとき、その表情が変わった。 ――何があろうとも、難波の家には帰る場所がある。 経遠と経房はしばらく、その文字を見つめていた。 川のせせらぎだけが聞こえる。 やがて経房が口を開いた。 「太郎兄上も、備前で父上とともに家を守り、社を守り、土地を守っておる」 経遠は文を丁寧に畳んだ。 「我らが京で太刀を振るっておる間もな」 経房は川の向こうを眺めた。 「昔は、太郎兄上が家に残るのを、少し退屈そうだと思っておった」 「三郎」 経歴遠に咎められ経房が苦笑しながら続ける。 「今は違う。帰る場所を守る者がおらねば、我らは帰ることさえできぬ」 経遠は弟を見た。 保元の乱を経て、経房は少し変わった。 相変わらず喧嘩早く、誰よりも前へ出たがる。 だが、ただ敵を倒すだけではなく、その向こうにいる人間を見るようになっていた。 「太刀を振るう者だけが、家を守るのではない」 経遠が言った。 経房は頷いた。 「ならば兄者」 「何じゃ」 「俺たちは俺たちの務めを果たそう」 経遠は弟を見つめた。 「そ...

難波一族記【1】~経遠編~ 第十四章 讃岐への舟

イメージ
  14.讃岐への舟 京で敗者への処断が続く頃、備前にも保元の乱の知らせが届いていた。 吉備津彦神社の境内で、経信は京から届いた文を静かに読み終えた。 差出人は次男・経遠であった。 「父上。次郎は何と?」 傍らにいた長男・経友が尋ねた。 「二人とも無事じゃ」 経信が答えると、経友はようやく表情を緩めた。 「三郎もか」 「ああ。相変わらず無茶をしたようじゃがな」 経信は苦笑した。 文には、経遠が侍大将として郎党を率い、経房が自らの郎党とともに前線を駆けたこと、そして瀬尾兼康もまた別の手勢を率いて戦ったことが記されていた。 さらに、戦が終わった後にも多くの命が失われたことが綴られていた。 だが、最後の一文だけは重かった。 ――崇徳上皇、讃岐へ御配流。 経友は瀬戸内の方角へ目を向けた。 やがて、港から戻った者が知らせをもたらした。 上皇を乗せた舟が都を離れ、瀬戸内を西へ進んでいるという。 「帝であられた御方でさえ、戦に敗れれば故郷を離れねばならぬのか……」 経友が呟いた。 経信は答えなかった。 この海を、難波一族は長く見てきた。 交易の舟も、平家の軍船も、海賊の舟も通った。 だが今、その同じ海を、敗れた上皇の舟が讃岐へ向かっている。 「太郎」 「はい」 「次郎と三郎に返事を書こう」 経友は筆を取った。 経信はしばらく考え、ゆっくりと言葉を続けた。 「戦に勝ったことは喜ばしい。されど、勝ったからとて驕るな、と」 経友が筆を走らせる。 「それから――」 経信は、境内の向こうに広がる吉備の山々を見渡した。 「何があろうとも、難波の家には帰る場所がある。そう書いておけ」 経友は父の顔を見た。 やがて小さく頷き、その言葉を文に記した。 京では、経遠と経房が武士として生きている。 備前では、経信と経友が家を守っている。 戦場へ出る者と、帰る場所を守る者。 どちらが欠けても、一族は続かない。 その日の夕刻。 瀬戸内の海は、茜色に染まっていた。 遠く讃岐へ向かう海の彼方を見つめながら、経信は静かに呟いた。 「次郎、三郎。必ず帰ってこい」 数日後、その文は京へ向かった。 兄弟が再び賀茂川の河原に立つ頃、その父の言葉もまた、二人のもとへ届こうとしていた。 ※この物語はフィクションです。