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難波一族記【1】~経遠編~ 第七章 保元の乱・強弓

7.保元の乱・強弓 保元元年(一一五六年)七月十一日。 白河北殿では、平清盛率いる軍勢と崇徳上皇方の激しい戦いが続いていた。 「鎮西八郎為朝、ここにあり! 我が矢を受けてみよ!」 源為朝が大弓を引き絞ると、凄まじい音とともに一本の矢が放たれた。 その矢は平家の武者を射抜き、周囲の兵たちを震え上がらせた。 「何という強弓じゃ! あれでは迂闊に近づけぬぞ!」 経遠が叫ぶと、弟の経房は不敵な笑みを浮かべた。 「兄者! あの為朝を討ち取れば、我らの名も天下に轟くぞ!」 「馬鹿者! 無闇に近づくでない!」 しかし、血気盛んな経房は既に馬を走らせていた。 「難波三郎経房、参る!」 経房が名乗りを上げたその時、為朝が再び弓を構えた。 経遠の叫びと同時に放たれた矢は、経房の兜をかすめ、背後の郎党の旗竿をへし折った。 「うおっ! 危なかったわい!」 慌てて馬を引き返す経房の姿に、経遠は胸をなで下ろした。 そこへ瀬尾兼康が駆けつけた。 「おい、難波殿! あの化け物、まともに相手をしては命がいくつあっても足りぬぞ!」 「分かっておる! 三郎、兼康殿、我らは兵をまとめ直すぞ!」 為朝の強弓によって、平家の軍勢は思うように前進できなくなっていた。 さらに、別の方面から攻め寄せていた源義朝の軍勢も、敵の激しい抵抗に苦しんでいた。 「兄者、このままでは埒が明かぬぞ!」 「うむ。何としても敵の守りを崩さねばならぬ!」 経遠は太刀を握り直し、白河北殿を見据えた。 天下無双の強弓を誇る為朝を前に、難波兄弟と兼康は、これまでにない苦戦を強いられていたのであった。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記【1】~経遠編~ 第六章 保元の乱・夜討ち

6.保元の乱・夜討ち 保元元年(一一五六年)七月十一日、未明。 静まり返った京の都を、無数の馬蹄の音が駆け抜けていく。 「兄者、いよいよじゃな!」 経房は愛用の太刀を腰に差し、意気揚々と馬を進める。 「三郎、油断するなよ。此度の戦は我らが命運を左右するぞ」 「分かっておるわい! 兄者こそ遅れを取るなよ!」 いつもの調子で言い返す経房に、経遠は苦笑いを浮かべた。 平清盛率いる三百余騎は二条大路を、源義朝率いる二百余騎は大炊御門大路を進み、崇徳上皇が立てこもる白河北殿を目指していた。 「おう、難波殿! 此度こそ我が戦働き、とくと見ておくがよい!」 「兼康殿、此度は夜討ちぞ! 少しは声を抑えぬか!」 三人は顔を見合わせて笑った。 しかし、白河北殿が目前に迫ると、その表情は一変した。 「かかれ!」 清盛の号令とともに、平家の軍勢が一斉に攻めかかった。 だが、源為義率いる上皇方も容易には崩れない。 「三郎! 我らは為義の軍勢を狙うぞ!」 「承知!」 経房は太刀を抜き、敵陣へと突き進んだ。 しかし、その行く手には、天下無双の強弓を誇る鎮西八郎源為朝が待ち構えていたのである。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記【1】~経遠編~ 第五章 保元の乱・出陣

5.保元の乱・出陣 「皆、揃ったな」 若いが低く重い声が場を支配した。 経遠、兼康をはじめ、その場に居並ぶ侍大将たちは一斉に膝をつく。 中央に座すは 平清盛 その眼差しは静かでありながら、底知れぬ圧を放っていた。 「此度の都の騒動、もはや避けられぬ。 上皇方(崇徳上皇)と帝方(後白河天皇)、両陣に分かれ、刃を交えることとなる」 ざわめきが走る。 「これは――内乱にございますか…」 思わず経遠が呟いた。 清盛はゆっくりと頷く。 「然り。我らは帝方に加勢する。しかし、右馬助叔父(平忠正)や源為義は上皇方につくだろう。しかし、為義の子息・義朝は我らと同じく帝方につくという。この内戦は世代交代の側面もあるかもしれぬのう」 清盛は眼を閉じて呟く。 夜の京。 重く沈む空気の中、兵が静かに動き始める。 経遠は甲冑を整えながら、静かに息を吐いた。 「いよいよだな、三郎」 「兄者、相手は誰だ?」 「左大臣、そして右馬助殿…。だがわし等は源 為義の軍勢を狙うぞ」 経房の目が細くなる。 「……面白ぇ。腕が鳴るわ」 「油断するな。 都の戦は海とは違う。逃げ場はない」 経遠の声はいつになく鋭かった。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記【1】~経遠編~ 第四章 保元の乱・前夜

4.保元の乱・前夜 「いや、これ程まで平家の力は絶大であったか。もはやこの海域で難波に楯突く者は皆無だな。此度の戦で平家の名は益々全国に轟いた。のう、太郎」経信は上機嫌だ。 経友は「左様ですな父上。次郎、三郎に感謝ですね。」 経信は言葉少なに答える経友を尻目に饒舌に続ける。 「次郎はもはや平家の侍大将。此度の活躍は誉れ高い。何と言っても平家の新棟梁・清盛公が特別目にかけてくださってるという。平家に難波次郎経遠、難波三郎経房。この威光は絶大である。」 「そして備前は父上と拙者。我が吉備津彦神社も盛況。有り難いことに安泰ですな」 弟たちだけでなく、私も頑張ってるんですよっと言わんばかりに、経友は呟く。 何だかすねた素振りをみせる経友をみて大笑いの経信は 「お主の苦労はワシが一番理解しておる。この備前、吉備津彦神社の繁栄は日々のお主の働きのお陰じゃ。次郎、三郎もお主がおるから安心して京で活躍することが出来とるんじゃよ。長兄のお主は不満を感じることもあるかと思うが、ワシの跡取りはお主ししかおらぬのだ。感謝しとるよ太郎。」 普段文句の一つも言わない経友が、すねた素振りをみせるものだから経信は笑わずにはいられなかったのだ。 「勿体無いお言葉。拙者は安定的にこの備前の地で家業を支えるのが性に合っております。気性の荒い次郎、三郎には務まらんでしょうし、私も戦働きは性に合いません。それぞれが適材適所で才能を発揮して一族の繁栄を目指す。難波一族もそれを体現しておりますな。」と快晴の青空を見上げる経友であった。 時は遡り、保元元年(一一五六年)。 「今日は久しぶりの青空だなぁ。京は備前と異なり、青空の日が少ないからな。こんな空は気持ちが良い。」入道雲が遠方に見えるが、真っ青な空を眺め、経遠は寝転んだまま経房に語り掛ける。 「兄者、父上や太郎兄上はどうしとるかのう?文でも送ろうか?」 「やめとけ、元気にやっとるさ。何かあれば使いの早馬がやってくるわ。それに三郎はろくな文が書けまいが。そんな三郎が文なぞ書けば、父上たちは反対に心配するわ」 少し意地悪そうに経遠は経房に返答した。 そんなたわいもない話をしていると、 「おい、難波殿も急げ、お屋形さまが侍大将一同をお呼びだぞ」 河原に寝転がっていた二人の頭上をドスドスと音をたてながら大男の瀬尾兼康が走っていった。 経遠は経房を尻目に跳ね起きて...

難波一族記【1】~経遠編~ 第三章 栄華

3.栄華 「忠盛殿、此度の海路ですが、こちらの航路がより安全で到着も早かろうと」経遠は熟考を重ねた結果を忠盛に伝える。 経遠と経房は忠盛の傘下に入っていた。 忠盛に西方の海賊討伐を命じていた白河法皇は忠盛に命じて間もなくの七月七日に崩御するが、経信は次男・経遠、三男・経房を平家に遣わす事と引き換えに難波家の吉備の穴海の支配権を保持するが得策と考えていた。 経遠、経房も平家の圧倒的な力に感服し、人が変わったように平家の忠臣として仕えるようになっていた。 保延元年(一一三五年)に忠盛は中務大輔に任じられるが、平家も鳥羽上皇が推進する日宋貿易に力を注ぐべく思案していたが、瀬戸内にのさぼる海賊たちが邪魔で大きな問題となっていた。 この海賊討伐に難波兄弟は大いに尽力・活躍し、降伏した海賊たちは次々と平家の傘下へと降っていった。これにより海賊行為を行うものは皆無となり平家の海事は難波家にすべて託され、絶大の信頼を得るようになった。 これを機に経遠は平家の侍大将を任されるまでになっていた。 「難波殿、此度の活躍殊勝であった」経遠が振り返ると武骨な体躯をした武者がいた。この武者、名を瀬尾兼康と言う。経遠同様に平家の侍大将を任されている男である。この男は備前の西・備中真備の御仁である。こちらは武骨な体を活かした戦働きが得意な男であった。 海事は備前・難波、陸事は備中・瀬尾。 平家ではこのように認識されるようなり、平家内でも絶大な力を保持するようになっていく。 平家としても忠盛は仁平元年(一一五一年)に刑部卿となり、絶頂期を迎えてた。 しかし、仁平三年(一一五三年)、念願でもあった公卿への昇進を目前として死去。忠盛、時に五十八歳のことであった。 この忠盛の死去を機に忠盛の長男である清盛がいよいよ平家の実権を握ることとなる。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記【1】~経遠編~ 第二章 出会い

2.出会い こんな事があるのか、暗黒が広がる暗闇の嵐の夜、未だ嘗てみたこともないような大きな波に襲われて自分達の船が次々と飲み込まれていく。たちまち海の藻屑と消えていく・・・。まさに悪夢であった。 難波四郎経信は目覚めると夢と分かって安堵したのと同時に、侍女に茶を持って来るように促し、なぜこんな夢を見てしまったのか・・・と昨夜の夢を思い出していた。 経信は『今までちと強引に勢力を延ばし過ぎたか?恨みをかっておるのかのう・・・』といつになく弱気な事を呟いていた。 現在、経信は備前目代を務めており、この備前地区の代表的な存在であった。 また一族でかの吉備津彦神社の社司をも務めており、吉備津彦神社の目の前に船着場を築いて、この海域の難所を渡る際の守り神として通行する際は立ち寄ってお布施をする事を慣習とさせていた。そんな事もあり、この吉備の穴海を想いのまま牛耳り、莫大な資金を得てこの海域を中心として著しく繁栄していた。 しかし、最近はというと体も衰えそろそろ息子達に家督や家業を継がせようと考えていた。 幸いな事に経信は三人の健康な男児に恵まれていた。長男・太郎経友。次男・次郎経遠。三男・三郎経房。『何れが継いでも安泰であろう。だが次郎、三郎は少々気が荒すぎる。やはり長兄の太郎が心穏やかできめ細やかで長く家が繁栄するだろう』などと侍女が持ってきたお茶を飲みながら想いを巡らせていた。 まあ柄にもなく、こんな弱気な事を考えておるからあんな夢を見たのだろうと気に留めない事とすると安堵したのか再び眠気を催し笑みを浮かべもう一眠りする事にした。 それから数日の事であっただろう。 経遠、経房がいつもの通り、海へ出て回遊し、この海域を通る船を吉備津彦神社へ向かうように誘っていると、今まで見たことがない様な巨船が大量に押し寄せてきた。 『兄者、大変だとんでもない数の船が押し寄せて来てるぞ!!』、『あの数は只者じゃねぇぜ。ましては俺達の停船命令を無視して突き進んでくる。どうする?』っと経房。 『いつもの様に知らしめてやるかの。撃退あるのみじゃ!!』っと勇んで経遠。 しかし、集団の巨船からの攻撃にこの海域を知り尽くした兄弟も苦戦を強いられ、 『これは一大事じゃ。早く親父や兄者に伝えねば・・・』と兄弟は命からがら逃れるのに精一杯であった。 やがてこの巨船は吉...

難波一族記【1】~経遠編~ 第一章 起こり

1.起こり 備前、備中の境に位置する吉備の中山。この山は古来より、霊山として崇められ、麓には吉備津彦神社、吉備津神社を有している。 この地域は気候もよく、安定した土地柄であった為、嘗ては『吉備の国』と呼ばれ、大和国でも一、二を争う巨大勢力であった。 当時、吉備の国では『温羅』という渡来人が足守川西側の『新山』に後に『鬼ノ城』と呼ばれる城を建て、ここを拠点として横暴を繰り返していたようで、これを鎮圧する為に考霊天皇の命を受けて弟・稚武彦命と共に派遣されてきたのが『大吉備津彦命』である。 同時期に北陸に派遣された『大彦命』、東海に派遣された『武渟川別』、丹波に派遣された『丹波道主命』と合わせてこの大吉備津彦命は『四道将軍』の一人とされている。 大吉備津彦命が温羅との戦いの時に本陣を構えたのが今の吉備津彦神社の場所と云われている。吉備津彦神社、吉備津神社の主祭神が大吉備津彦命であるのはそんな所以故である。 かの『大化の改新』後にこの吉備の国は備前、備中、備後に分かれているが、これに伴い、もともとあった吉備津神社が備前・吉備津彦神社となり、同じタイミングで吉備の中山の西側に備中・吉備津神社を建てている。備前一宮と備中一宮はこの吉備の中山の東西に位置しているが、元々は同じ由緒の神社であり、やはり霊山である吉備の中山の麓に建立されている。そして更に西の備後にも吉備津神社という名で備後一宮が建てられており、吉備津神社はこの三つに分裂する事となった。 そんな歴史を持つ吉備津彦神社。この備前一宮である吉備津彦神社の官職を務める家、それが備前難波一族の難波家である。 難波一族は葛城山田直広主が欽明天皇時の556年、備前国児島郡に屯倉の田令とされたとこから始まり、その子・瑞子が田使首を賜姓されている。 瑞子の末裔である田使緒主が児島郡司から備前一宮吉備津彦神社付近の津高郡司となったのは律令制が成立した飛鳥時代後期頃からとされる。 緒主の末裔・田使諸主が津高郡駅家郷難波に住し、子の津高郡少領田使千世より難波を称する様になった。 それから数百年…。 難波家は先祖代々、田使を務めていた事もあり、莫大な資産を手にしており、此を元手に船を持ち、周辺海域を独占するようになっていた。 当時はこの吉備津彦神社周辺まで海がきており、吉備の穴海と呼ばれていた。 ...