難波一族記【1】~経遠編~ 第一章 起こり

1.起こり

備前、備中の境に位置する吉備の中山。この山は古来より、霊山として崇められ、麓には吉備津彦神社、吉備津神社を有している。
この地域は気候もよく、安定した土地柄であった為、嘗ては『吉備の国』と呼ばれ、大和国でも一、二を争う巨大勢力であった。

当時、吉備の国では『温羅』という渡来人が足守川西側の『新山』に後に『鬼ノ城』と呼ばれる城を建て、ここを拠点として横暴を繰り返していたようで、これを鎮圧する為に考霊天皇の命を受けて弟・稚武彦命と共に派遣されてきたのが『大吉備津彦命』である。
同時期に北陸に派遣された『大彦命』、東海に派遣された『武渟川別』、丹波に派遣された『丹波道主命』と合わせてこの大吉備津彦命は『四道将軍』の一人とされている。
大吉備津彦命が温羅との戦いの時に本陣を構えたのが今の吉備津彦神社の場所と云われている。吉備津彦神社、吉備津神社の主祭神が大吉備津彦命であるのはそんな所以故である。

かの『大化の改新』後にこの吉備の国は備前、備中、備後に分かれているが、これに伴い、もともとあった吉備津神社が備前・吉備津彦神社となり、同じタイミングで吉備の中山の西側に備中・吉備津神社を建てている。備前一宮と備中一宮はこの吉備の中山の東西に位置しているが、元々は同じ由緒の神社であり、やはり霊山である吉備の中山の麓に建立されている。そして更に西の備後にも吉備津神社という名で備後一宮が建てられており、吉備津神社はこの三つに分裂する事となった。

そんな歴史を持つ吉備津彦神社。この備前一宮である吉備津彦神社の官職を務める家、それが備前難波一族の難波家である。

難波一族は葛城山田直広主が欽明天皇時の556年、備前国児島郡に屯倉の田令とされたとこから始まり、その子・瑞子が田使首を賜姓されている。
瑞子の末裔である田使緒主が児島郡司から備前一宮吉備津彦神社付近の津高郡司となったのは律令制が成立した飛鳥時代後期頃からとされる。
緒主の末裔・田使諸主が津高郡駅家郷難波に住し、子の津高郡少領田使千世より難波を称する様になった。
それから数百年…。

難波家は先祖代々、田使を務めていた事もあり、莫大な資産を手にしており、此を元手に船を持ち、周辺海域を独占するようになっていた。
当時はこの吉備津彦神社周辺まで海がきており、吉備の穴海と呼ばれていた。
特にこの辺りは波が渦巻き、航海の難所としても有名で、そんな事もあってこの周辺は『難波』と呼ばれていた。そんな名残もあり、この一帯に難波郷が形成され一族が根を張る事となった。

※この物語はフィクションです。

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