難波一族記【1】~経遠編~ 第五章 保元の乱・出陣

経遠編 第五章

保元の乱・出陣

第五章『保元の乱・出陣』の挿し絵

保元元年(一一五六年)七月。

京の都には、ただならぬ緊張が漂っていた。

鳥羽法皇が崩御した後、朝廷の内部にくすぶっていた対立は、もはや隠しようのないものとなっていた。

後白河天皇と崇徳上皇。

さらに、藤原忠通とその弟・頼長。

朝廷を二分する争いは、ついに武者たちをも巻き込もうとしていた。

その日、六波羅では平清盛が侍大将たちを集めていた。

広間には難波次郎経遠、瀬尾太郎兼康をはじめ、平家に仕える武者たちが居並んでいた。

「皆、揃ったな」

清盛の声が響いた。

諸将は一斉に頭を下げた。

「此度の都の騒動、もはや避けられぬところまで来ておる」

清盛は静かに言った。

「崇徳上皇方と後白河天皇方。両陣営に分かれて、刃を交えることとなろう」

広間に重い沈黙が落ちた。

「我ら平家は、帝方に加勢する」

清盛は諸将を見渡した。

「されど、敵方には我が叔父・平忠正殿がおられる」

経遠は顔を上げた。

平忠正は、清盛の父・忠盛の弟である。

同じ平家の血を引く者が、敵味方に分かれるというのだ。

清盛は続けた。

「源氏も同じじゃ。源為義は上皇方につき、その子・義朝は帝方に加わる」

兼康が眉をひそめた。

「親子が敵味方に分かれるとは……」

清盛はうなずいた。

「此度は、そのような戦なのじゃ」

経遠は静かに問いかけた。

「清盛様。上皇方の兵を率いるのは、為義殿にございますか」

「うむ。為義のもとには、幾人もの勇将が集まっておる」

清盛は少し間を置いた。

「なかでも、鎮西八郎為朝という男を侮ってはならぬ」

「鎮西八郎……」

経遠はその名を繰り返した。

「源為義の八男じゃ。若くして九州で武名を高め、並外れた大弓を使うという」

兼康が腕を組んだ。

「ほう。それほどの弓の名手にございますか」

「うむ。戦の働きも尋常ではないと聞く」

経遠は黙って考えた。

為朝という武者については、以前から噂を耳にしていた。

九州で幾度もの戦を経験し、強弓によって敵を寄せつけない若武者。

しかも、実兄の義朝とは敵味方に分かれている。

単なる武勇だけではない、強い信念を持った男なのかもしれない。

その時、清盛が経遠を見た。

「次郎」

「はっ」

「そなたは兵の動きをよく見極めよ。為朝のような武者が相手であれば、無理に攻め寄せることはならぬ」

「心得ました」

清盛は兼康へ視線を移した。

「太郎」

「はっ!」

「そなたには、難波の軍勢と歩調を合わせてもらう。兵の勢いを保ち、敵の反撃を防ぐのじゃ」

「お任せくだされ!」

兼康は力強く答えた。

清盛は最後に、広間を見渡した。

「よいか。此度の戦は、ただ武功を競うためのものではない」

その声が低く響いた。

「我らの働きが、朝廷の行方を左右する。各々、その覚悟を忘れるな」

諸将は深く頭を下げた。

軍議を終えた経遠と兼康は、屋敷へ戻る道を歩いていた。

「次郎殿」

兼康が口を開いた。

「鎮西八郎という男、まことにそれほどの武者であろうか」

経遠は答えた。

「清盛様がわざわざ名を挙げられたほどじゃ。侮るべきではありますまい」

「なるほど」

兼康はしばらく考えた後、豪快に笑った。

「ならば、なおさら腕が鳴るわ!」

経遠も小さく笑った。

「太郎殿まで三郎のようなことを申されるな」

「ははは! 戦の前に怖じ気づいては、兵もついて来ぬであろう!」

その言葉には、兼康なりの覚悟が込められていた。

屋敷へ戻ると、経房が待ち構えていた。

「兄者! どうであった!」

「戦になる」

経遠は短く答えた。

経房の目が鋭くなった。

「ようやくか!」

「三郎。此度の敵は手強いぞ」

「誰じゃ」

「源為義の軍勢。そして鎮西八郎為朝という武者がおる」

経房は不敵に笑った。

「鎮西八郎か。面白い!」

兼康が声を上げた。

「三郎殿! わしと同じことを申すな!」

「太郎殿こそ、俺の真似をするな!」

二人は顔を見合わせて笑った。

経遠はその様子を見ながら、静かに息を吐いた。

「よいか、二人とも」

経房と兼康が振り向いた。

「我らは兵を預かる立場じゃ。己の武勇を示すことばかり考えてはならぬ」

経房は口を尖らせた。

「兄者、分かっておる」

「ならばよい」

経遠は甲冑を手に取った。

「三郎。そなたには前線を支える一隊を任せる。敵を押し返す時は力を尽くせ。されど、命があるまでは勝手に突出するな」

「承知した!」

「太郎殿には側面を固めていただきたい」

「心得た!」

三人は互いにうなずいた。

やがて夜が近づくと、屋敷の中では郎党たちが武具を整え始めた。

弓を確かめる者。

太刀を研ぐ者。

馬の世話をする者。

誰もが、これから始まる戦を意識していた。

経遠は一人の若い郎党が、懐から小さな布包みを取り出すのを見た。

「それは何じゃ」

郎党は慌てて頭を下げた。

「母より授かった守りにございます」

経遠は静かにうなずいた。

「大切にせよ」

「はっ!」

「されど、守りだけに命を預けるな。わしの合図をよく聞き、無理をせず戦え」

郎党は深く頭を下げた。

経遠はその姿を見送った。

戦場へ向かうのは、己一人ではない。

それぞれの家族を持つ者たちが、主君を信じて従ってくる。

その命を預かる重さを、経遠は改めて感じていた。

一方、白河北殿では上皇方も戦支度を進めていた。

その一角に、ひときわ大きな弓を携えた若武者がいた。

鎮西八郎源為朝である。

為朝は、父・為義のもとに控えていた。

「父上。敵が動く前に、こちらから攻めるべきにございます」

為義は息子を見た。

「八郎。その策、頼長殿へも申し上げたか」

「はっ。されど、聞き入れられませぬでした」

為朝は悔しそうに答えた。

「敵が整うのを待てば、戦は難しくなります」

為義は静かにうなずいた。

「そなたの申すことも分かる。されど、此度は上皇方の軍勢。己の考えだけで動くわけにはゆかぬ」

為朝は弓を握り直した。

「……承知しております」

「八郎」

「はっ」

「此度は義朝とも敵味方に分かれた」

為朝の表情がわずかに変わった。

「分かっております」

「兄弟が刃を交えることになるやもしれぬぞ」

為朝はしばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「父上をお守りすることが、八郎の務めにございます」

為義は息子を見つめた。

「……うむ」

その夜。

京の都には、重い雲が広がっていた。

経遠は屋敷の庭に立ち、遠く白河北殿の方角を見つめていた。

やがて背後から、経房が歩み寄ってきた。

「兄者」

「何じゃ」

「明日は、いよいよ戦じゃな」

「うむ」

「……必ず生きて戻ろうぞ」

経遠は弟を振り返った。

その言葉が経房の口から出たことに、少し驚いた。

「三郎。珍しいことを申すな」

「何じゃ! 俺とて、命が惜しくないわけではない!」

経遠は笑った。

「ああ。必ず戻ろう」

二人は夜空を見上げた。

やがて、京の静寂を破るように使者が駆け込んできた。

「出陣の支度を!」

経遠は顔を上げた。

「三郎、参るぞ」

「応!」

平家の軍勢が、静かに動き始めた。

これより、歴史に名を残す保元の乱が始まろうとしていた。

※この物語は史実をもとにしたフィクションです。

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