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難波一族記【1】~経遠編~ 第四章 保元の乱、平治の乱①

4.保元の乱、平治の乱① 「いや、これ程まで平家の力は絶大であったか。もはやこの海域で難波に楯突く者は皆無だな。此度の戦で平家の名は益々全国に轟いた。のう、太郎」経信は上機嫌だ。 経友は「左様ですな父上。次郎、三郎に感謝ですね。」 経信は言葉少なに答える経友を尻目に饒舌に続ける。 「次郎はもはや平家の侍大将。此度の活躍は誉れ高い。何と言っても平家の新棟梁・清盛公が特別目にかけてくださってるという。平家に難波次郎経遠、難波三郎経房。この威光は絶大である。」 「そして備前は父上と拙者。我が吉備津彦神社も盛況。有り難いことに安泰ですな」 弟たちだけでなく、私も頑張ってるんですよっと言わんばかりに、経友は呟く。 何だかすねた素振りをみせる経友をみて大笑いの経信は 「お主の苦労はワシが一番理解しておる。この備前、吉備津彦神社の繁栄は日々のお主の働きのお陰じゃ。次郎、三郎もお主がおるから安心して京で活躍することが出来とるんじゃよ。長兄のお主は不満を感じることもあるかと思うが、ワシの跡取りはお主ししかおらぬのだ。感謝しとるよ太郎。」 普段文句の一つも言わない経友が、すねた素振りをみせるものだから経信は笑わずにはいられなかったのだ。 「勿体無いお言葉。拙者は安定的にこの備前の地で家業を支えるのが性に合っております。気性の荒い次郎、三郎には務まらんでしょうし、私も戦働きは性に合いません。それぞれが適材適所で才能を発揮して一族の繁栄を目指す。難波一族もそれを体現しておりますな。」と快晴の青空を見上げる経友であった。 時は遡り、保元元年(一一五六年)。 「今日は久しぶりの青空だなぁ。京は備前と異なり、青空の日が少ないからな。こんな空は気持ちが良い。」入道雲が遠方に見えるが、真っ青な空を眺め、経遠は寝転んだまま経房に語り掛ける。 「兄者、父上や太郎兄上はどうしとるかのう?文でも送ろうか?」 「やめとけ、元気にやっとるさ。何かあれば使いの早馬がやってくるわ。それに三郎はろくな文が書けまいが。そんな三郎が文なぞ書けば、父上たちは反対に心配するわ」 少し意地悪そうに経遠は経房に返答した。 そんなたわいもない話をしていると、 「おい、難波殿も急げ、お屋形さまが侍大将一同をお呼びだぞ」 河原に寝転がっていた二人の頭上をドスドスと音をたてながら大男の瀬尾兼康が走っていった。 経遠は経房を尻目に跳ね

難波一族記【1】~経遠編~ 第三章 栄華

3.栄華 「忠盛殿、此度の海路ですが、こちらの航路がより安全で到着も早かろうと」経遠は熟考を重ねた結果を忠盛に伝える。 経遠と経房は忠盛の傘下に入っていた。 忠盛に西方の海賊討伐を命じていた白河法皇は忠盛に命じて間もなくの七月七日に崩御するが、経信は次男・経遠、三男・経房を平家に遣わす事と引き換えに難波家の吉備の穴海の支配権を保持するが得策と考えていた。 経遠、経房も平家の圧倒的な力に感服し、人が変わったように平家の忠臣として仕えるようになっていた。 保延元年(一一三五年)に忠盛は中務大輔に任じられるが、平家も鳥羽上皇が推進する日宋貿易に力を注ぐべく思案していたが、瀬戸内にのさぼる海賊たちが邪魔で大きな問題となっていた。 この海賊討伐に難波兄弟は大いに尽力・活躍し、降伏した海賊たちは次々と平家の傘下へと降っていった。これにより海賊行為を行うものは皆無となり平家の海事は難波家にすべて託され、絶大の信頼を得るようになった。 これを機に経遠は平家の侍大将を任されるまでになっていた。 「難波殿、此度の活躍殊勝であった」経遠が振り返ると武骨な体躯をした武者がいた。この武者、名を瀬尾兼康と言う。経遠同様に平家の侍大将を任されている男である。この男は備前の西・備中真備の御仁である。こちらは武骨な体を活かした戦働きが得意な男であった。 海事は備前・難波、陸事は備中・瀬尾。 平家ではこのように認識されるようなり、平家内でも絶大な力を保持するようになっていく。 平家としても忠盛は仁平元年(一一五一年)に刑部卿となり、絶頂期を迎えてた。 しかし、仁平三年(一一五三年)、念願でもあった公卿への昇進を目前として死去。忠盛、時に五十八歳のことであった。 この忠盛の死去を機に忠盛の長男である清盛がいよいよ平家の実権を握ることとなる。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記【1】~経遠編~ 第二章 出会い

2.出会い こんな事があるのか、暗黒が広がる暗闇の嵐の夜、未だ嘗てみたこともないような大きな波に襲われて自分達の船が次々と飲み込まれていく。たちまち海の藻屑と消えていく・・・。まさに悪夢であった。 難波四郎経信は目覚めると夢と分かって安堵したのと同時に、侍女に茶を持って来るように促し、なぜこんな夢を見てしまったのか・・・と昨夜の夢を思い出していた。 経信は『今までちと強引に勢力を延ばし過ぎたか?恨みをかっておるのかのう・・・』といつになく弱気な事を呟いていた。 現在、経信は備前目代を務めており、この備前地区の代表的な存在であった。 また一族でかの吉備津彦神社の社司をも務めており、吉備津彦神社の目の前に船着場を築いて、この海域の難所を渡る際の守り神として通行する際は立ち寄ってお布施をする事を慣習とさせていた。そんな事もあり、この吉備の穴海を想いのまま牛耳り、莫大な資金を得てこの海域を中心として著しく繁栄していた。 しかし、最近はというと体も衰えそろそろ息子達に家督や家業を継がせようと考えていた。 幸いな事に経信は三人の健康な男児に恵まれていた。長男・太郎経友。次男・次郎経遠。三男・三郎経房。『何れが継いでも安泰であろう。だが次郎、三郎は少々気が荒すぎる。やはり長兄の太郎が心穏やかできめ細やかで長く家が繁栄するだろう』などと侍女が持ってきたお茶を飲みながら想いを巡らせていた。 まあ柄にもなく、こんな弱気な事を考えておるからあんな夢を見たのだろうと気に留めない事とすると安堵したのか再び眠気を催し笑みを浮かべもう一眠りする事にした。 それから数日の事であっただろう。 経遠、経房がいつもの通り、海へ出て回遊し、この海域を通る船を吉備津彦神社へ向かうように誘っていると、今まで見たことがない様な巨船が大量に押し寄せてきた。 『兄者、大変だとんでもない数の船が押し寄せて来てるぞ!!』、『あの数は只者じゃねぇぜ。ましては俺達の停船命令を無視して突き進んでくる。どうする?』っと経房。 『いつもの様に知らしめてやるかの。撃退あるのみじゃ!!』っと勇んで経遠。 しかし、集団の巨船からの攻撃にこの海域を知り尽くした兄弟も苦戦を強いられ、 『これは一大事じゃ。早く親父や兄者に伝えねば・・・』と兄弟は命からがら逃れるのに精一杯であった。 やがてこの巨船は吉

難波一族記【1】~経遠編~ 第一章 起こり

1.起こり 備前、備中の境に位置する吉備の中山。この山は古来より、霊山として崇められ、麓には吉備津彦神社、吉備津神社を有している。 この地域は気候もよく、安定した土地柄であった為、嘗ては『吉備の国』と呼ばれ、大和国でも一、二を争う巨大勢力であった。 当時、吉備の国では『温羅』という渡来人が足守川西側の『新山』に後に『鬼ノ城』と呼ばれる城を建て、ここを拠点として横暴を繰り返していたようで、これを鎮圧する為に考霊天皇の命を受けて弟・稚武彦命と共に派遣されてきたのが『大吉備津彦命』である。 同時期に北陸に派遣された『大彦命』、東海に派遣された『武渟川別』、丹波に派遣された『丹波道主命』と合わせてこの大吉備津彦命は『四道将軍』の一人とされている。 大吉備津彦命が温羅との戦いの時に本陣を構えたのが今の吉備津彦神社の場所と云われている。吉備津彦神社、吉備津神社の主祭神が大吉備津彦命であるのはそんな所以故である。 かの『大化の改新』後にこの吉備の国は備前、備中、備後に分かれているが、これに伴い、もともとあった吉備津神社が備前・吉備津彦神社となり、同じタイミングで吉備の中山の西側に備中・吉備津神社を建てている。備前一宮と備中一宮はこの吉備の中山の東西に位置しているが、元々は同じ由緒の神社であり、やはり霊山である吉備の中山の麓に建立されている。そして更に西の備後にも吉備津神社という名で備後一宮が建てられており、吉備津神社はこの三つに分裂する事となった。 そんな歴史を持つ吉備津彦神社。この備前一宮である吉備津彦神社の官職を務める家、それが備前難波一族の難波家である。 難波一族は葛城山田直広主が欽明天皇時の556年、備前国児島郡に屯倉の田令とされたとこから始まり、その子・瑞子が田使首を賜姓されている。 瑞子の末裔である田使緒主が児島郡司から備前一宮吉備津彦神社付近の津高郡司となったのは律令制が成立した飛鳥時代後期頃からとされる。 緒主の末裔・田使諸主が津高郡駅家郷難波に住し、子の津高郡少領田使千世より難波を称する様になった。 それから数百年…。 難波家は先祖代々、田使を務めていた事もあり、莫大な資産を手にしており、此を元手に船を持ち、周辺海域を独占するようになっていた。 当時はこの吉備津彦神社周辺まで海がきており、吉備の穴海と呼ばれていた。

難波一族記【1】~経遠編~ あらすじ/登場人物紹介

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あらすじ 先祖は田使首で備前児島にて屯倉の田令に命じられるが、やがて備前の中心地に近づき、津高郡に至り吉備の中山の麓に居を構えるようになる。 田令によって築いた富を生かし、一族は船を持ちこの辺りの海域を牛耳っていた。そこに後に天下を治める事となる平家が近づいてくるが果たして。 おもな登場人物 難波次郎経遠 この物語の主人公。難波経信の次男。平家の侍大将として保元の乱、平治の乱で活躍する。 難波三郎経房 難波経信の三男。次兄・経遠と同じく平家に仕える。 難波太郎経友 難波経信の長男。 難波四郎経信 経友、経遠、経房三兄弟の父。 瀬尾兼康 備中の武士。経遠と共に平家の侍大将として保元の乱、平治の乱で活躍する。 平忠盛 清盛の父。伊勢平氏。備前守として瀬戸内の海賊を統一した。後には刑部卿となり公卿目前まで平家の地位を高めた。 平清盛 忠盛の嫡男。後に武士として初の太政大臣となり、平家の世を築く。 平重盛 清盛の嫡男。 後白河天皇 第77代天皇。平氏、源氏を影で操り34年間治世を治めた。 藤原成親 鹿ヶ谷事件により備前に配流となる。 源義朝 河内源氏。保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任ざれる。 源義平 源義朝の長男。源頼朝の兄。通称・鎌倉悪源太。 ※この物語はフィクションです。

難波一族記 ~はじめに~

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はじめに かつて備前の国に平家の侍大将を務めた男がいた。 彼は平家で活躍をみせるが、平家滅亡に伴い一族は備中の山奥に潜み過ごす事となる。 潜伏しながらも子孫は居住地を支配する守護の命により足利将軍の為に働き、室町時代末期には弓の使い手もあらわる。 その後も一族は備前、備中の勢力に仕えながら地元に構えた神社の神職を務め安息の日々を過ごしていた。 江戸時代前期には嘗て先祖が共に足利将軍家の為に働いたという縁で一人の僧がやってくる。この僧は度々この地を訪れて、やがて辻説法を行う様になる。一族はこの教えに感じ入り、やがてこの教えの信者となっていく。 その約50年後、事態は悪転する。 当時の岡山藩池田家の進めた神社合祀によって今まで地元に構え守ってきた神社を村の神社に合祀する事となり、一族は神職を辞す事となる。 また時を同じくして信者となっていた先述の教えが徳川幕府により禁教に指定されてしまったのである。 これより幕府による取締りや弾圧が始まる事となり、一族は表向きは他教に改宗した事にして、内信を続ける事となる。 ある時、内信を疑い取り締まりに来たある武士、これを打ち負かす活躍をした先祖。この男は後に名前を変えて代々英雄・神様として祀られた。 時代は下り天保年間には最も過酷だったといわれる天保法難と呼ばれた弾圧が始まり、大阪奉行所より、摘発され一族は大混乱となる。村の庄屋や村民からの助けもあり、これを切り抜け時代は明治となり禁教を解かれる事となる。 天保法難時に摘発に来た役人13人の経費を村に肩代わりしてもらっており、この時に一族は村に多大な迷惑をかけたと村に恩義を感じ、子孫たちは村の為に小前惣代、村会議員、郡会議員、村助役、村書記など村の要職を務め尽瘁する事となる。 我が一族は先祖たちのこの様な出来事を経て現在に至る様です。 これよりその時々に起こったと思われる一族の物語を紹介していこうと思います。

難波一族記

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難波一族記 私は家系図、過去帳、除籍謄本、旧土地台帳、地域誌、地域歴史資料、伝承などを基に先祖を遡っています。 先祖調査を行うことによって先祖にも色々な人生・物語があったと認識しました。 どこの家もそうでしょうが、先祖のお陰で今日我々が生活出来ているのだと考えると感謝の念を抱かずにはいられません。 先祖がどんな人物でどんな生活をしていたかを偲び、良かったことは手本とし、悪かったことは教訓として、我々はこれから先の未来も見据えて精進してまいらなければと思っております。 核家族化が進む現代ではありますが、家族を想う気持ち、お互い協力し合う心が今後より大切になってくると思います。 これから先の人生の指針の一つとして、未来を見据えて先祖の人生を物語として振り返っていこうと思います。