難波一族記【1】~経遠編~ 第二十一章 平治の乱・主上脱出
21.平治の乱・主上脱出
夜の六波羅は、静かな緊張に包まれていた。
松明の火が風に揺れ、門の内外では郎党たちが慌ただしく行き交っている。
経遠は地図を前に、都の道筋を見つめていた。
三条殿は焼かれ、後白河上皇は信頼方に押さえられた。
信西はすでに討たれている。
そして藤原信頼と源義朝は、二条天皇をもその支配下に置いていた。
「兄者」
経房が近づいてきた。
「まだ待つのか」
経遠は顔を上げた。
「いや。今夜は動く」
経房の表情が変わった。
そのとき、外から大きな声が響いた。
「次郎殿!」
瀬尾太郎兼康である。
「太郎殿」
兼康は経遠の前まで来ると、声を落とした。
「清盛様がお呼びじゃ」
三人はすぐに奥へ向かった。
平清盛の前には、長男・重盛も控えていた。
清盛は三人を見ると、静かに告げた。
「今宵、主上を六波羅へお迎えする」
経房がわずかに目を見開いた。
「二条天皇を……」
「ああ」
清盛は頷いた。
二条天皇――当時の帝である。都の者たちは敬意を込めて天皇のことを「主上」と呼んでいた。
その身柄をどちらが押さえるかは、単なる護衛の問題ではなかった。
帝を自らの側に迎えるということは、朝廷の正統を自らの側に置くということでもある。
経遠はすぐに清盛の意図を悟った。
「主上が六波羅へお入りになれば、我らが朝敵ではなくなる」
「そういうことじゃ」
清盛の声が低く響いた。
信頼方は後白河上皇を押さえ、政を握った。
主上が平家のもとへ移れば、情勢は大きく変わる。
重盛が地図を指した。
「御車はこちらを通る。敵に悟られてはならぬ」
経遠はその道筋を追った。
橋。辻。狭い路地。待ち伏せを受けそうな場所がいくつもある。
「太郎殿、この辺りを押さえてもらいたい」
兼康は地図を覗き込み、すぐに頷いた。
「任せよ。わしの手勢で固める」
経遠は次に弟を見る。
「三郎、お前は御車の近くにつけ」
「俺が」
「ああ。もし敵が来れば、お前が防げ」
経房の目に力が宿る。
「承知した」
「ただし、敵を追うな。御車から離れるな」
一瞬だけ沈黙があった。
経房は兄の目を見た。
そして、迷うことなく頷いた。
「分かった。兄者の命に従う」
深夜。
一台の御車が、都の闇を静かに進んでいた。
灯りは最低限に抑えられている。
経房はその近くで馬を進め、周囲を警戒していた。
少し離れた道では、経遠の郎党たちが要所を押さえている。
さらに外側には、兼康の手勢が配置されていた。
三人はそれぞれ別の役目を担っていた。
だが、目的はただ一つ。
主上を無事に六波羅へ迎えることである。
やがて前方に門が見えた。
六波羅である。
御車がゆっくりと門をくぐる。
門前には、清盛と重盛が待っていた。
経房が小さく息を吐く。
兼康も遠くからその様子を見届けていた。
経遠は静かに呟いた。
「これで……変わる」
「何がじゃ」
経房が尋ねる。
経遠は六波羅の門を見つめた。
「戦の形がじゃ」
二条天皇が六波羅へ入った。
それは、ただ一人の帝が場所を移したというだけではない。
平家が、戦うための大義を手にした瞬間でもあった。
翌朝、都には一つの噂が駆け巡った。
――主上は、六波羅にあり。
平治の乱は、ここから大きく動き始める。

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