難波一族記【1】~経遠編~ 第二十六章 平治の乱・決着
26.平治の乱・決着
平治元年(一一五九年)十二月二十六日。
六波羅をめぐる戦いは、ついに終局を迎えようとしていた。
鎌倉悪源太・源義平が父・義朝の軍勢へ戻った後も、源氏の兵は果敢に攻め続けていた。
しかし、その勢いは明らかに衰え始めていた。
平家の軍勢は次々と押し寄せ、源氏の陣を取り囲もうとしていたのである。
「兄者! 源氏の兵が退き始めたぞ!」
難波三郎経房が馬を寄せてきた。
その甲冑には幾つもの傷が刻まれ、太刀にも激戦の跡が残っていた。
「うむ。されど、油断するな」
難波次郎経遠は、遠くに翻る白旗を見据えていた。
「義平ほどの武者がおる以上、最後まで何が起こるか分からぬ」
経房は不敵に笑った。
「悪源太か。あの男とは、もう一度太刀を交えたかったがな」
「三郎。今は己の勝負より、兵を守ることを考えよ」
「分かっておる、兄者!」
経房は笑いながら答えたが、その目にはまだ戦いの熱が宿っていた。
そこへ、瀬尾太郎兼康が駆けつけた。
「次郎殿! 源氏の一隊が西へ退いておりますぞ!」
「太郎殿、重盛様の軍勢はいかがか」
「こちらは無事に陣を整えております。重盛様も、なお先陣に立たれておりますぞ!」
経遠は静かにうなずいた。
「ならば、我らも兵をまとめよう。追撃に夢中になってはならぬ」
「心得た!」
兼康は大きく笑い、郎党たちのもとへ戻っていった。
その頃、源氏の陣では源義朝が苦しい決断を迫られていた。
「父上! まだ戦えます!」
義平が太刀を握りしめて叫んだ。
その顔には疲労の色が浮かんでいたが、戦意はいささかも衰えていなかった。
義朝は息子を見つめた。
「義平。そなたの武勇は、誰よりも知っておる」
「ならば、今一度兵をまとめて!」
「ならぬ」
義朝の声は低かった。
「これ以上戦えば、残った者まで失う」
「されど父上!」
「義平!」
義朝は厳しく言った。
「武者は、勝つことばかりを考えてはならぬ。敗れた時に何を守るかも、考えねばならぬのじゃ」
義平は言葉を失った。
父の背は、いつも大きかった。
幾度もの戦場で源氏を率い、自らの力で道を切り開いてきた男である。
その父が、今は退くことを決めようとしていた。
「……父上」
「東国へ戻る。再び兵を集めるのじゃ」
義朝は白旗を見上げた。
「源氏の名を、ここで絶やすわけにはゆかぬ」
義平は唇をかみしめた。
やがて、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
だが、その胸に燃える闘志は、決して消えてはいなかった。
一方、六波羅では平清盛が戦況を見極めていた。
「源氏は退くか」
清盛の問いに、家人が答えた。
「はっ。義朝の軍勢は次第に崩れ、東へ逃れようとしております」
清盛は静かにうなずいた。
「深追いは無用じゃ。逃げ道を断ち、残る兵を押し返せ」
その言葉には、戦の勝敗を見通した者の確信があった。
清盛は近くに控えていた重盛へ目を向けた。
「重盛。そなたもよく戦った」
「父上。されど、待賢門では義平の勢いに押され、危ういところにございました」
重盛は悔しさを隠さなかった。
「そなたはまだ若い」
清盛は答えた。
「今日の敗れを恥じることはない。そこから何を学ぶかが肝要じゃ」
重盛は深く頭を下げた。
「はっ」
「これより平家が進む道は、さらに険しくなろう。そなたにも、いずれ一門を背負う日が来る」
重盛は父の顔を見上げた。
その目には、若き武将としての決意が宿っていた。
やがて経遠たちが六波羅へ戻ってきた。
「清盛様。源氏の軍勢は退き始めております」
経遠の報告に、清盛はうなずいた。
「次郎。此度もよく働いた」
「恐れ入ります」
「三郎も、悪源太とよく渡り合ったそうじゃな」
経房は一歩前へ進んだ。
「はっ。されど、あの男は恐るべき武者にございます」
清盛は目を細めた。
「ほう。そなたがそこまで申すか」
「まことに。あれほどの太刀を使う者、そうはおりますまい」
清盛は静かに笑った。
「義朝の長男じゃ。さもあろう」
そして経遠へ視線を移した。
「次郎。そなたは義平をどう見た」
経遠は少し考えて答えた。
「武勇に優れ、兵を奮い立たせる力を持つ武者にございます。されど、若さゆえに己の勢いを信じ過ぎるところもあるかと」
「なるほど」
清盛はうなずいた。
「ならば、その男を野に放てば、いずれ再び平家の脅威となろう」
経遠は黙って頭を下げた。
清盛の言葉には、勝者としての冷徹な判断があった。
やがて、六波羅に勝利の報がもたらされた。
「源氏、敗走!」
「平家の勝利じゃ!」
諸将の間から歓声が上がった。
保元の乱に続き、平家は再び大きな戦に勝利したのである。
清盛は諸将を見渡した。
「皆、よくぞ戦った!」
その声が堂々と響いた。
「此度の戦によって、平家の威勢はさらに高まろう。されど、勝ちに驕ってはならぬ」
清盛は一呼吸置いた。
「これからは、武者が政を支える時代となる。その覚悟を忘れるな」
諸将は一斉に頭を下げた。
経遠もまた、その言葉を胸に刻んでいた。
平家の勝利。
それは一門の繁栄を意味すると同時に、武者が天下の行方を左右する新たな時代の始まりでもあった。
やがて夕暮れを迎え、経遠たちは戦場を後にした。
京の町には、なお焼け残った建物から煙が立ち上っていた。
道端には折れた槍が転がり、破れた旗が泥にまみれていた。
傷ついた兵を支える者。
倒れた仲間の名を呼ぶ者。
そして、帰らぬ者を待つ家族の姿もあった。
経房は馬の歩みを緩めた。
「兄者」
「何じゃ」
「……勝ったのだな、我らは」
「うむ」
「されど、どうにも晴れぬものじゃ」
経遠は弟の顔を見た。
かつて保元の乱の戦場で、経房は息子を失った母親の悲しみに触れた。
あれから三年。
弟は幾度もの戦を経験し、武者として成長していた。
「三郎。それでよいのじゃ」
「それでよいのか」
「戦に勝つことと、戦を喜ぶことは同じではない」
経房はしばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……そうかもしれぬな」
その後ろから兼康が馬を寄せてきた。
「何じゃ、二人とも! 勝ったというのに、随分と静かではないか!」
経房が苦笑した。
「太郎殿は相変わらず元気じゃな!」
「当たり前よ! 生きて戻れたのじゃぞ!」
兼康は豪快に笑った。
だが、ふと表情を和らげた。
「……とはいえ、失った仲間も少なくない」
経遠は兼康を見た。
「太郎殿」
「次郎殿。戦というものは、勝っても負けても、つらいものですな」
いつもの豪快な声とは違う、静かな言葉だった。
三人はしばらく言葉を交わさず、夕暮れの道を進んだ。
やがて経房が口を開いた。
「兄者。ひとつ聞いてもよいか」
「何じゃ」
「あの悪源太、これからどうすると思う」
経遠は遠くの空を見つめた。
「義平ほどの男じゃ。容易には諦めまい」
「やはり、そう思うか」
「うむ。父・義朝殿のもとで、再起を図るやもしれぬ」
経房は太刀の柄に手を置いた。
「ならば、いずれまた戦うことになろう」
「そうかもしれぬな」
経遠は静かに答えた。
「されど、その時が来るまでは、我らも己の務めを果たすのみじゃ」
経房はうなずいた。
その夜、六波羅の屋敷。
経遠と経房の帰りを、経家と六郎経俊が待っていた。
「父上!」
二人の姿を見つけた経家が駆け寄った。
「ご無事で何よりにございます」
経遠は息子の肩に手を置いた。
「留守の間、屋敷をよく守ってくれたな」
「はい。六郎とともに、皆の手伝いをしておりました」
その傍らで、六郎は経房の傷ついた甲冑を見つめていた。
「父上。此度も強い武者と戦われたのですか」
「ああ。鎌倉悪源太という、恐ろしいほど強い男じゃ」
「父上は勝たれたのですか」
経房はしばらく考えた。
「いや。勝負はつかなんだ」
そして、息子の頭をなでた。
「されど、こうしてお前のもとへ帰ってこられた。それが何よりじゃ」
六郎は静かにうなずいた。
経遠は二人の姿を見つめながら、遠く備前の方角へ思いを寄せた。
長兄・経友と、その嫡男・経俊。
彼らもまた、京からの知らせを待っていることであろう。
「三郎。明日は備前へ文を送ろう」
「ああ。太郎兄上にも、我らの無事を伝えねばならぬな」
二人は静かにうなずいた。
京と備前。
異なる土地で暮らしながら、難波一族は同じ時代を生きていた。
やがて、その子どもたちもまた、それぞれの道を歩んでゆくことになる。
しかし、彼らが受け継ぐ難波の名には、これから幾度もの試練が待ち受けていた。
時を少しさかのぼり、同じ日の夕刻。
京を離れた源氏の軍勢は、東国を目指していた。
源義朝は残った兵を率い、寒風の吹く街道を急いでいた。
その傍らで、義平は馬上から振り返った。
遠くに見える京の空は、夕焼けに赤く染まっていた。
それは、六波羅で平家の勝利が告げられた頃のことであった。
父とともに築こうとした源氏の栄華も、いまは遠ざかろうとしていた。
「……難波次郎、難波三郎」
義平は小さくつぶやいた。
戦場で相まみえた二人の姿が、脳裏によみがえった。
冷静に兵を動かした兄。
勇猛果敢に太刀を振るった弟。
いずれも忘れがたい武者であった。
だが今、義平の胸を占めているのは、それ以上に強い思いだった。
「父上」
義平が声をかけた。
「何じゃ」
「このままでは終われませぬ」
義朝は静かに息子を見た。
「……うむ」
「必ずや、源氏の武名を取り戻してみせます」
義朝は何も答えなかった。
ただ、息子の肩にそっと手を置いた。
冬の風が、二人の間を吹き抜けた。
平治の乱は、平家の勝利によって幕を閉じた。
清盛の威勢はますます高まり、武家の世は新たな時代を迎えようとしていた。
だが、戦に敗れた者たちの思いまで、消え去ったわけではなかった。
源義朝。
そして、その長男・鎌倉悪源太義平。
彼らの運命は、ここからさらに大きく動き始める。
やがて経遠と経房の前に、再びあの若き荒武者が姿を現すことになる。
その時、難波兄弟を待ち受けるのは、戦場での一騎討ちとは異なる、もう一つの厳しい戦いであった。
京に、静かな冬の夜が訪れようとしていた。

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