難波一族記【1】~経遠編~ 第二十七章 鎌倉悪源太

 

27.鎌倉悪源太

平治元年(一一五九年)十二月末。

京を離れた源氏の軍勢は、冬の寒さの中を東へ向かっていた。

平治の乱は、平家の勝利によって終わった。

源義朝に従っていた武者たちは、戦場で多くの仲間を失い、今はわずかな人数となっていた。

その中に、一人の若武者がいた。

鎌倉悪源太・源義平。

義朝の長男である。

まだ若くして東国に武名を轟かせた男は、六波羅の戦いでも平家の軍勢を幾度となく押し返した。

しかし、その義平でさえ、戦の流れを変えることはできなかった。

「……くそっ!」

義平は馬上で拳を握りしめた。

思い出すのは、六波羅での激戦である。

平重盛の軍勢。

瀬尾太郎兼康の豪勇。

そして、難波の兄弟。

冷静に軍勢を動かした難波次郎経遠。

自ら太刀を振るい、真正面から挑みかかってきた難波三郎経房。

あの二人がいなければ、重盛の軍勢をさらに追い詰めることができたかもしれぬ。

「……難波三郎」

義平は小さくつぶやいた。

経房との太刀合わせを思い返すと、今でも腕にその衝撃がよみがえる。

「次に出会った時は、必ず決着をつけてやる」

その声を聞いた郎党が、心配そうに振り返った。

「若君。どうか今はお身体をお休めくだされ」

「休んでおる暇などあるか!」

義平は声を荒らげた。

しかし、すぐに口を閉じた。

郎党の顔には疲労の色が濃く、肩口の傷には血のにじんだ布が巻かれている。

思えば、この男も京から休まず馬を進めてきたのである。

「……すまぬ」

義平は低く言った。

「もう少し進めば、休める場所を探そう」

郎党は驚いたように顔を上げた。

そして、深く頭を下げた。

「かたじけのうございます」

義平は前方へ視線を戻した。

若き日の彼は、強き敵を討つことこそ武者の誉れと信じていた。

十五歳にして叔父・源義賢を討ち、東国にその名を轟かせた。

その勇猛さゆえ、人々は彼を「悪源太」と呼んだ。

悪とは、ただ人を害する意味ではない。

並外れて強く、常人には及びもつかぬ武者への畏怖が込められていた。

だが今、義平の前にあるのは、勝利ではなく敗走の道であった。

それでも、彼の闘志は消えていなかった。


一方、京の六波羅。

平家の勝利から数日が過ぎ、都にはようやく落ち着きが戻り始めていた。

しかし、戦の傷跡は深かった。

焼け落ちた屋敷。

主を失った家々。

戦場に残された武具を片づける人々。

難波次郎経遠は、郎党たちから各地の報告を受けていた。

「次郎様。源氏の残兵は、なお各地に散っているとのことにございます」

「うむ」

経遠は広げた地図へ目を落とした。

「義朝殿は東国へ向かったと聞く。されど、すべての武者が同じ道を進むとは限るまい」

その時、経房が部屋へ入ってきた。

「兄者!」

「どうした、三郎」

「源氏の残党が、まだ京の外におるそうではないか」

「そのようじゃな」

「ならば、俺にも働く場があるということか!」

経遠は弟を見た。

「三郎。戦は終わったのじゃ」

「分かっておる。されど、悪源太はまだ生きておる」

経房は太刀の柄に手を置いた。

「あの男が、このまま大人しく引き下がるとは思えぬ」

経遠は静かにうなずいた。

「その点では、わしも同じ考えじゃ」

「ほう!」

経房は目を輝かせた。

「兄者もそう思うか!」

「義平は一度敗れた程度で志を捨てる男ではない。だからこそ、次に何をするかを見極めねばならぬ」

経房は腕を組んだ。

「俺なら、すぐに兵を集めて戻ってくるがな」

「そなたならそうするであろうな」

経遠はわずかに笑った。

「だが義平には、別の道もある」

「別の道?」

「大軍を率いて戻ることだけが、敵を討つ方法ではあるまい」

その言葉に、経房は考え込んだ。

「……まさか」

「まだ何も分からぬ。されど、油断はできぬということじゃ」

その時、廊下から豪快な声が響いた。

「次郎殿! 三郎殿!」

瀬尾太郎兼康であった。

「二人とも、また悪源太の話をしておるのか!」

「太郎殿!」

経房が振り返った。

「ちょうどよいところへ参られた!」

兼康は笑いながら座へ加わった。

「いやはや、三郎殿はよほどあの男が気に入ったとみえる!」

「気に入ったわけではない!」

「ならば、もう一度戦いたいのであろう?」

「……まあ、それはそうじゃ」

兼康は声を上げて笑った。

しかし、経遠は地図を見つめたまま口を開いた。

「太郎殿。源氏の動きについて、何かお聞きではありませぬか」

兼康は表情を改めた。

「各地で落人の噂はありますな。されど、確かな居場所までは分かりませぬ」

「左様か」

経遠はうなずいた。

兼康も地図に目を落とした。

「次郎殿。もし悪源太が戻ってきたならば、今度は我ら三人で迎え撃ちましょうぞ!」

経房が笑った。

「太郎殿! その時は俺にも十分な働き場を残してくだされ!」

「ははは! 承知した!」

経遠は二人のやり取りを聞きながら、静かに地図を畳んだ。

義平ほどの男であれば、いずれ必ず動く。

ただし、その時にどれほどの兵を連れているのか。

それとも、別の姿で現れるのか。

今はまだ、誰にも分からなかった。


その頃、源義朝の一行は、美濃国へとたどり着いていた。

雪の残る山道を越え、ようやく青墓の地に入ったのである。

かつては幾百もの武者を従えた義朝も、今はわずかな郎党を連れるのみとなっていた。

さらに、次男・朝長は戦で深手を負い、三男・頼朝の行方も分からなくなっていた。

義平は父の姿を見つめた。

六波羅で軍勢を率いていた頃よりも、その背が小さく見えた。

「父上」

義平が声をかけた。

「何じゃ」

「この先、いかがなされますか」

義朝はしばらく答えなかった。

やがて、静かに口を開いた。

「義平。そなたには、別の道を進んでもらいたい」

「別の道とは?」

「北国へ向かえ」

義平は目を見開いた。

「北国にございますか」

「うむ。源氏に心を寄せる武者は、まだ各地におる。そなたは彼らを集め、再起の道を探るのじゃ」

義平はしばらく父を見つめた。

「父上は?」

「わしは東国へ向かう道を探る」

「ならば、俺もお供いたします!」

義朝は首を横に振った。

「ならぬ」

「父上!」

「義平。今は一人でも多く、生き延びねばならぬ」

義朝の声は静かだった。

「そなたは、わしとは違う道を進め。源氏の旗を、もう一度掲げるためにな」

義平は歯を食いしばった。

これまで父とともに幾度もの戦を経験してきた。

東国でも、京でも、父の背を追い続けてきた。

その父と、ここで別れねばならぬという。

「……承知できませぬ」

義平の声が震えた。

義朝は息子へ歩み寄った。

「義平」

「俺は、父上をお守りするために戦ってきました」

「知っておる」

「ならば!」

「そなたには、まだ果たすべき役目がある」

義朝は義平の肩に手を置いた。

「そなたの武勇は、わしの誇りじゃ」

義平は顔を上げた。

義朝は続けた。

「されど、武勇だけでは源氏を再び立て直すことはできぬ。人を集め、人の心を得ねばならぬ」

義平は何も答えられなかった。

その言葉が、胸の奥へ深く響いていた。

「……父上」

「行け、義平」

義朝は静かに言った。

「源氏の名を、次の世へ残すのじゃ」

やがて義平は深く頭を下げた。

「必ずや兵を集め、父上のお役に立ってみせます」

「うむ」

「そして、もう一度京へ戻ります」

義朝は息子を見つめた。

「その時は、今度こそ平家を打ち破ってみせます!」

義朝はわずかに笑った。

「頼もしいことよ」

父と子は、しばらく言葉を交わさなかった。

冬の風が、二人の間を吹き抜ける。

やがて義平は馬に乗った。

「父上。どうか、ご無事で!」

「そなたもな」

義平は最後に一度だけ父を振り返った。

義朝はその場に立ち、息子を見送っていた。

それが、父と子の最後の別れとなることを、二人はまだ知らなかった。


義平は北国へ向かって馬を進めた。

山道には雪が積もり、道を行き交う人影も少ない。

従う郎党も、わずかな人数であった。

だが、義平の胸には、ひとつの決意があった。

父から託された源氏再興の願い。

戦場で倒れた仲間たちの無念。

そして、六波羅で出会った平家の武者たちへの思い。

「……難波次郎、難波三郎」

義平は再び、その名を口にした。

勇猛な弟と、冷静な兄。

あの二人との戦いは、義平にとって忘れがたいものであった。

だが、次に京へ戻る時、彼らと再び戦場で向き合うことになるのか。

それとも、別の形で出会うことになるのか。

義平には、まだ分からなかった。

「若君!」

郎党が声をかけた。

「この先、道が二つに分かれております!」

義平は前方を見た。

ひとつは、人の行き交う街道。

もうひとつは、険しい山の奥へ続く細い道であった。

義平は迷わず手綱を引いた。

「山道を進むぞ」

「されど、雪が深うございます!」

「平家の追手が街道を見張っておるやもしれぬ。今は人目を避ける方がよい」

郎党たちはうなずいた。

義平は再び馬を進めた。

かつては敵陣の真ん中へ迷わず飛び込んだ若武者が、今は険しい道を選んでいる。

それは恐れからではなかった。

もう一度戦うために、生き延びねばならなかったのである。

山の向こうには、まだ見ぬ味方がいるかもしれぬ。

源氏の旗を掲げれば、応じる武者がいるかもしれぬ。

義平は、そう信じていた。

だが、その頃すでに平家は諸国へ目を向け、逃れた源氏の行方を探り始めていた。

京では、難波経遠が新たな命を受ける日が近づいていた。

そして経房もまた、再び悪源太と相まみえる時を迎えようとしていた。

戦場では決着のつかなかった二人。

その因縁は、まだ終わっていない。

冬の山々を越え、源義平は北国へと進んでいった。

源氏再興の望みを胸に秘めて。

しかし、その前途には、さらなる悲劇が待ち受けていた。

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