難波一族記【1】~経遠編~ 第二十八章 追捕の命

経遠編 第二十八章

追捕の命

平治二年(一一六〇年)正月。

京の六波羅には、冷たい朝の風が吹き込んでいた。

平治の乱が終わっても、平家の武者たちに休む暇はなかった。

戦場から逃れた源氏の武者は、なお諸国に散っている。

そして、その中には鎌倉悪源太・源義平の姿もあった。

その朝、平清盛のもとへ一人の使者が駆け込んできた。

「尾張より急ぎの知らせにございます!」

使者は広間に進み、深く頭を下げた。

「源義朝、尾張国野間にて討たれたとのこと!」

居並ぶ武者たちの間に、どよめきが広がった。

清盛はしばらく口を開かなかった。

かつて保元の乱では、同じ帝方に立って戦った男である。

しかし今、その義朝は平家に刃を向け、敗れて命を落としたという。

「……確かな報せか」

「現地より重ねて知らせが届いております。長田忠致が関わったとも」

清盛は静かにうなずいた。

「そうか」

その声音には、勝者の歓喜はなかった。

清盛の傍らに控えていた難波次郎経遠は、使者の報告を聞きながら、別の男の名を思い浮かべていた。

源義平。

義朝の長男にして、平治の乱で平家を苦しめた若き猛将。

父を失ったと知れば、あの男はどう動くであろうか。

清盛もまた、同じことを考えていた。

「次郎」

「はっ」

「悪源太の行方は、いまだ分からぬか」

「北国へ向かったとの噂はございますが、居所まではつかめておりませぬ」

「義平は、父の死を聞いて大人しく身を隠す男ではあるまい」

経遠は顔を上げた。

「私も、そのように考えております」

清盛は諸将を見渡した。

「源氏の残党を探り、悪源太義平の行方を突き止めよ」

広間が静まり返った。

「ただし、疑わしき者を片端から討つことは許さぬ。人の往来を乱せば、かえって敵を見失う」

「心得ました」

経遠が答えると、清盛は続けた。

「次郎。そなたに追捕の軍勢を預ける」

「はっ」

「三郎と瀬尾太郎にも力を合わせてもらう。義平は腕に覚えのある武者じゃ。取り逃がすことのなきように」

「必ずや、その行方を見極めます」

清盛は一つうなずいた。

「見つけ次第、まずは捕らえよ。されど、こちらの兵を無駄に失ってはならぬ」

経遠は深く頭を下げた。

これまで幾度も戦場で命を受けてきた。

だが、此度の命は戦とは異なる。

姿の見えぬ一人の武者を、山野と街道の中から探し出すのである。

* * *

軍議を終えた経遠は、経房と瀬尾太郎兼康を連れて屋敷へ戻った。

広げられた地図には、京を囲む山々と諸国へ延びる道が描かれていた。

「兄者! ようやく悪源太と再び相まみえる機会じゃな!」

経房が勢いよく言った。

兼康も腕を組んで笑った。

「三郎殿。今度こそ、あの若武者を逃してはなりませぬぞ!」

「もちろんじゃ!」

しかし、経遠の表情は厳しかった。

「二人とも、此度は戦場ではない」

「分かっておる、兄者」

「いや、まだ分かっておらぬ」

経遠は地図の一点を指した。

「義平が北国へ向かったのなら、戻る道は一つではない。大勢の兵を動かせば、それだけこちらの所在が知れる」

兼康は地図へ身を乗り出した。

「では、少人数を分けて探らせるのでござるか」

「うむ。街道には目を置く。されど、山道も捨ててはならぬ」

経遠は京へ通じる幾筋もの道を指でたどった。

「悪源太ほどの男なら、我らの目が街道へ向くことくらい承知しておろう」

経房はしばらく地図を見つめていた。

「ならば、俺は山へ入ろう。少ない兵なら、動きも軽い」

経遠は弟を見た。

「三郎。そなたには近江へ通じる道の見張りを任せる。ただし、敵を見つけても独断で追い詰めてはならぬ」

「……また、それか」

「義平を侮れば、味方の命を失うぞ」

経房は口を閉じた。

思い出すのは、六波羅で交えた太刀の重さである。

あの一撃を受けた時、少しでも判断を誤れば命を落としていたかもしれぬ。

「分かった。兄者の合図を待つ」

兼康が笑みを浮かべた。

「わしは街道沿いの宿を探りましょう。人の集まるところには、必ず噂が残るものにござる」

「太郎殿、お願いいたします」

経遠は地図を畳んだ。

「そして、義平を見つけても、周りにおる者を敵と決めつけぬことじゃ」

経房が顔を上げた。

「どういうことじゃ」

「宿を貸した者も、道を教えた者も、その相手が悪源太とは知らぬやもしれぬ」

経遠は静かに続けた。

「人を恐れさせれば、聞けるはずの話も聞けなくなる」

兼康は深くうなずいた。

「なるほど。戦よりも、厄介な務めでござるな」

「そういうことじゃ」

三人は互いに顔を見合わせた。

義平を追うための、目に見えぬ戦が始まろうとしていた。

* * *

その頃、北国へ向かう山道では、源義平が雪を踏みしめていた。

父・義朝と別れてから、幾日かが過ぎていた。

従う郎党は少なく、まともな宿に泊まれぬ夜も続いていた。

「若君。これ以上北へ進めば、雪はなお深くなりましょう」

「分かっておる」

義平は白い山並みを見つめた。

父から託されたのは、源氏の再起である。

今は兵を集め、生き残る道を探らねばならぬ。

頭では分かっていた。

だが、胸の奥には六波羅での敗北が焼きついたままであった。

その時、前方の細道から一人の旅の僧が現れた。

凍えた手を合わせ、道端で休む義平たちに声をかけた。

「そなたら、京より参られたか」

郎党が身構えた。

義平は片手を上げ、答えた。

「京の様子を知っておるか」

僧はためらうようにうつむいた。

「大きな戦があったと聞きました。源氏の大将も、落ち延びられたそうで」

義平の胸が騒いだ。

「その大将は、どうなった」

「……尾張の野間で討たれた、と」

義平は耳を疑った。

「何じゃと」

「道中の者たちが、そう噂しておりました。真偽までは存じませぬ」

僧はそれだけ告げ、深く頭を下げた。

義平は何も答えられなかった。

父・義朝の顔が脳裏に浮かんだ。

雪の残る道で、自分に北国へ進めと命じた父。

「源氏の名を、次の世へ残すのじゃ」

あの言葉が、今も耳に残っている。

「若君……」

郎党が声をかけた。

義平は拳を握った。

「噂じゃ。確かなことではあるまい」

そう言いながらも、声がかすかに震えていた。

やがて別の旅人からも、同じ知らせが届いた。

長田忠致の裏切り。

尾張での非業の死。

義平はその夜、火の前に一人座っていた。

郎党たちは誰も、言葉をかけられなかった。

しばらくして、義平が静かに立ち上がった。

「戻るぞ」

「……どちらへ」

「京じゃ」

郎党たちは顔を見合わせた。

「若君! 京には平家の兵が満ちております!」

「承知しておる」

「今は北国で味方を集めよとの、義朝様のお言葉が……」

義平は目を閉じた。

確かに、父はそう言った。

だが、父はもう戻らぬのかもしれぬ。

「父上の仇を討つ」

その声は、吹き荒れる雪の中でもはっきりと響いた。

「相手は平清盛じゃ」

「されど、我らは数人にございます!」

「大軍を率いるつもりはない」

義平は郎党を見た。

「そなたらまで命を捨てることはない。ここより先は、わし一人でも参る」

郎党の一人が前へ進み出た。

「若君を、お一人では行かせませぬ」

義平はその男を見つめた。

京から逃れる道中、幾度も支えてくれた者であった。

「……すまぬ」

短く答え、義平は太刀を取った。

父が残した言葉を、今度は別の形で果たそうとしていた。

* * *

数日後、六波羅の経遠のもとへ、近江から報せが届いた。

「次郎様。北の方角から京へ戻る若武者の噂がございます」

経遠は顔を上げた。

「人数は」

「多くはございませぬ。人目を避け、宿を変えながら進んでおるとか」

経房が勢いよく立ち上がった。

「兄者! 悪源太に違いない!」

「まだ決まったわけではない」

経遠は地図を広げた。

「されど、動きが早いな」

兼康が眉をひそめた。

「義朝殿の死を知ったのでござろうか」

「その可能性はある」

経遠は近江から京へ続く道を見つめた。

「大軍を連れずに戻るとすれば、目的は一つではあるまいか」

経房は太刀の柄を握った。

「清盛様の御命を狙うつもりか!」

経遠は答えなかった。

答えずとも、その危険は誰もが理解していた。

やがて経遠は静かに命じた。

「三郎。まずは兵を率いて東の道へ向かえ。敵の姿を確かめよ。見つけても、わしの命があるまで手を出すな」

「はっ!」

「太郎殿。宿場と関の様子を探っていただきたい。通る者を脅かしてはなりませぬぞ」

「心得た!」

経遠は最後に、残る郎党たちを見た。

「京へ入る道を、静かに押さえる。義平にこちらの動きを悟らせるな」

郎党たちは一斉に頭を下げた。

経房が部屋を出ようとした時、経遠は声をかけた。

「三郎」

「何じゃ、兄者」

「悪源太を見つけたなら、まず知らせよ。あの男と一人で戦おうとするな」

経房はしばらく兄の顔を見ていた。

そして、不敵に笑った。

「……承知した。されど兄者、あの男も俺を忘れてはおるまいな」

「そうであろうな」

経遠は小さく答えた。

六波羅で交えた太刀と太刀。

戦場で終わらなかった二人の因縁。

それが、今度は京へ続く道の上で再び動き出そうとしていた。

その日の夕刻。

近江の山あいを、旅装束の若武者が一人、足早に進んでいた。

笠の下に隠された鋭い眼差し。

深く覆った袖の内には、使い慣れた太刀があった。

源義平である。

その行く手には、まだ見えぬ平家の兵がいた。

そして都の側では、難波次郎経遠が、静かに包囲の支度を整えていた。

追う者と、追われる者。

二人の道が交わる時は、刻一刻と近づいていた。

※この物語は史実・軍記伝承をもとにしたフィクションです。

コメント

このブログの人気の投稿

難波一族記【1】~経遠編~ あらすじ/登場人物紹介

難波一族記【1】~経遠編~ 第四章 保元の乱・前夜

難波一族記 ~はじめに~